調理人への芽生え  (とんかつ一幸開店までの歩み)

お客様によく聞かれる質問があります。
どうしてフランス料理を修行したのに「とんかつ屋」になったの?…と
その度、私はいつもある人の事を思い出します。現在は亡くなってしまいましたが
私がこの道に入るきっかけとなった人。
それは山梨県にある人口3万人余りの小さな町で洋食店を営んでいた伯父の事です。
若い時は東京の大塚駅からまもない処で店を開いてた事もあった伯父は
柔道の最高峰、講道館3段の腕前、武勇伝には事欠かないかっぷくの良い
地元では一目置かれいた人物でした。
そしてもう一つの顔が、甲子園を沸かした山梨県の市立市川高校の
元監督という少々代わった経歴の持ち主です。

毎年夏休みになると家族で4、5時間近く汽車に揺られ、その家へ行く事が
何よりの楽しみでした。
夜だけしか営業しない伯父の店は10人も入れば一杯になってしまう
御世辞でも綺麗とは言えない古ぼけた、いやに細長い店でした。
そんな小さな町の小さな店というのに、甲府から車で30分以上かけて来てくださるお客様や
時には店から溢れて外で立って食べている人までいる、地元では有名な店でした。

"監督"と皆から呼ばれていた伯父は、味には絶対の自信を持った人でもありました。
そんな伯父の後ろ姿を小さい頃から見ていた私は、料理にとても魅力を感じていきました。
小学生低学年の頃「僕は大人になったらおじさんの様なコックさんになりたいです」と
伯父に手紙を書いた程です。
私が調理師学校に入ったとき「本当になったね」と手紙を記憶していた親戚には言われましたが
実際にコックになると決まった時、当の伯父は
「この世界はおまえが思うほど甘くはないぞ、それどころか
たいへん厳しい世界だから考え直すのだったら今の内だぞ」と反対されました。

しかし私は、子供の頃から夢見たこの世界に入るのに、何の迷いも有りませんでした。
今に至っては私の選んだ道に間違いは無かったと確信しています。
その時伯父から学んだ事は、料理を作る楽しさと、食べた人が喜んでくれる嬉しさでした。
今から思えば私の料理に対する原点がその時、既に出来上がっていたのではないでしょうか。

その伯父の料理の中で最も舌に感動を覚えているのはカツ丼です。
私が外食に行く時、知らず知らずのうちにカツ丼をメニューの中から探しています。
メニューに載っていると、あの伯父の味が忘れられずつい頼んでしまいます。
しかしあの味には巡り合う事は出来ず、食べる度に「これじゃないんだよなー」と思いながら
又別の店に入ると知らぬ間にメニューからカツ丼を探してしまいます。

その伯父が作っていたカツ丼とは、今にして思えば肉の厚みが7〜8mm
これ以上厚いとタレが絡んでも肉にまで染み込まず
これより薄いと肉の味がタレに消されてしまう丁度よい厚さだったと記憶しています。
カツの揚りは、丼になって卵が絡まなかった所はカリッと触感が残り
卵が絡まった所はふわっと味が染み込んでいました。
タレはチャーシューを煮た醤油で深みの有る味に仕上げて有り
玉葱は水っぽくなるからっと伯父は入れませんでした。
とんかつとタレの絶妙な味のバランスを、半熟卵で上手にまとめあげていました。

カツ丼のタレの深さは、決して専門店の修行だけでは出せなかったのでは無いかと思います。
伯父が洋食をバックボーンとしていたお陰であの深く、コクの有る
ほんのり甘みの広がる味が出せたと思います。今でも決して忘れる事の
出来ない味として、この舌にしっかりと記憶されています。

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